都史考察

都史等について、気になったことの考察やメモ。文献調査に基づく個人的な意見ですので、特定の組織等の見解ではありません。

03 プロトコール上の東京都知事

大統領制のような日本の自治制度の中で、スウェーデン一国の財政規模に匹敵する13兆円の予算を抱える東京都知事は、「首相より強い権力者」と言われることもある*1。実際に、その影響力においても首相には劣るものの、国内の政治家有数のものである。

しかし、国のプロトコール上では、戦後、明確な序列は定められていないものの、概ね以下のような基準で席次が決められる*2

 

1 天皇陛下、皇族

2 三権の長内閣総理大臣衆議院議長参議院議長、最高裁判所長官の順)

3 元三権の長

4 外国特命全権大使(信任状捧呈順)

5 閣僚(管制順又は年齢順)

6 国会議員

7 財界等有力者

8 その他認証官

9 都道府県知事(行政順又は連合組織の定める順)

10 都道府県議会議長

11 各省事務次官

 

つまり、日本国在住の全員が集まる行事が企画されたと仮定した場合、都知事は上から900番台又は1000番台の序列になるのだ。もちろん、これは外務省関係者が示す一つの基準であって、実際には様々な条件を考慮して序列を決めるため、必ずしもこのとおりに決まるものではない。

ただ、都知事はその影響力や権力においては国内トップレベルであるものの、行政制度上は一都道府県の首長に過ぎない。

 

しかし、戦前においてはその様相は少し異なった。

1943年7月に、世界大戦下の帝都行政の効率化を目的として東京府東京市が廃止され、東京都が新設されると、その長たる東京都長官親任官として設置された。大日本帝国憲法下の官吏に設けられた階級のうち、親任官は最上位のものであり、天皇陛下親任式で親署される役職であった。なお、その次の位の勅任官から、敬称は「閣下」であったとされる。なお、現在の外交においては地方政府の長に慣例的に敬意を込めて「閣下」(His/Her Excellency)を用いることもない訳ではないが、通常はThe Honourableを用いる(東京レベルの大都市であれば、Lord Mayorに用いるThe Right Honourable辺りが適切なようにも思われる)*3

戦前においては、各官職の序列は「宮中席次」という形で設けられており、これは以下のとおりであった。

(当然、1より上に皇族がある)

1 大勲位

2 内閣総理大臣

3 枢密院議長

4 元勲優遇者

5 元帥、国務大臣宮内大臣内大臣

6 朝鮮総督

7 内閣総理大臣、枢密院議長経験者

8 国務大臣等経験者

9 枢密院副議長

10 陸軍大将、海軍大将、枢密院顧問官

11 親任官

12 貴族院議長、衆議院議長

(中略)

19 高等官一等

(中略)

24 高等官二等

 

親任官たる東京都長官貴族院衆議院議長よりも上席であり、また高等官一等又は二等の府県知事よりも明確に格上となっている(地方行政における親任官として、大戦末期(1945年6月)に各地方に置かれた地方総監府の総監もあった)。

もっとも、戦後にGHQ占領政策を行うまでは、官選知事の時代であったため、この府県知事というのはその大半が内務官僚などの国が選んだ人物である。終戦直後ではあるが、当時の県知事の性格を理解する上での事例の一つとして、春彦一の事例を挙げたい。

春は、東京帝大法学部卒業後に東京都の前身である東京市に就職した東京市職員である。出世コースを歩み、東京都が誕生すると港湾局長や交通局長を務めた。しかし、交通局長の後のポストが、岩手県知事であった。その後、春は都に戻り、労働局長や副知事を務めた。GHQ公職追放によって行政官の多くが公職を追われた*4ための特例的な人事ではあっただろうが、制度上は東京都の局長級が県知事に就任することもできた。なお、東京都の制度を作った内務官僚の一人(後の知事)鈴木俊一は、府県の課長が都の係長、部長が課長、府県の知事が都の局長だったと明言している*5

戦後、都道府県知事が公選となり、地方分権改革が進んで機関委任事務制度が廃止される、国と都道府県の関係は上下関係から対等なものに変わるなど、都道府県の自律性は極めて高まった。一方で、その公式の序列においては、都知事の序列は一地方の首長として先述のものに低下している。

*1:佐々木信夫『都知事-権力と都政』など

*2:杉田明子『国際マナーのルールブック』、安倍勲『プロトコール入門』などを参考とした。

*3:個人的な所感ではあるが、勅任官は現在における指定職レベルの官職であり、現在よりも幅広く「閣下」の敬称が用いられていたと考えられる。この点、愛新覚羅溥儀が「閣下」と呼ばれて激怒したというのにも頷ける気がする。

*4:例えば、都職員においても、その出世ルートに含まれていた区長のポストにいた者は、大政翼賛会支部長を兼職していたため、公職追放の対象となった。

*5:鈴木俊一『官を生きる 鈴木俊一回顧録』51頁