都史考察

都史等について、気になったことの考察やメモ。文献調査に基づく個人的な意見ですので、特定の組織等の見解ではありません。

09 二人の側近から読む石原都政とトップマネジメント

先月、井澤勇治(2020)『秘書が見た都知事の素顔 石原慎太郎と歴代知事』(芙蓉書房)が発売された。筆者の井澤は2007年6月から2010年3月まで石原知事の秘書部長を務め、その後も報道担当理事(報道官)、生活文化局長として都の要職を務めている。

側近から見た石原知事という面では、他にも青山やすしや猪瀬直樹など副知事のもののほか、著作があると思われるが、ここでは柿沼伸二(2015)『前期昭和人の日記』(文芸春秋)を取り上げ、両者の見方から石原都政(とりわけ、石原慎太郎という人物)について考えたい。柿沼は石原都政下の1999年から2000年に政策報道室長を務めている。

 

まず、両書を読むと、石原慎太郎という人物の描かれ方が対極と言っていいほど異なるのがわかる。

井澤(2020)では、人見知りで、虫の居所が悪いときは説明資料を紙つぶてとして投げる姿も描かれるが、一方で、秘書課の女性職員に笑顔を向け、ヨットに乗せる計画を立てるなどの一面が見られる。気難しいが、部下に優しい姿が描かれる。

柿沼(2015)では、石原は持ち前のリーダーシップこそあるものの、庁内では職員をねぎらうことなどなく、すぐに職員に辞表を促す冷酷な人物のように描かれる。

この違いは何だろうか。これは、①「身内」と「外部」の違い、②初期石原と後期石原の違い、の2点が主因であると言えるだろう。

まず、石原は身内にも厳しい人物であるが、身内のことをねぎらうのは忘れない人物だと思われる。例えば、石原の側近中の側近のH氏などは、格別の扱いを受けている。「内」と認められる人々、都庁内で言えば、知事に最も距離の近い秘書課が「内」であったと言える。これは、井澤が秘書から知事本局次長に転じた翌日に、知事の叱責を受け、「一昨日まで"仲間"として、言わば"内側"にいた人間に対するこの手厳しさ。これが、"石原慎太郎"である」(145頁)と書いていることが証左である。

また、石原が当初、都職員を信用せず、一橋総研などの「身内」を中心とした政策立案を行っていたことも知られている。しかし、井澤(2020)でも「石原知事も、就任当初こそ二言目には、『大体、民間企業と比べて都庁は』と発言していたが、任期を重ねるごとにその言葉は出なくなった」(229頁)と書かれるように、後期の石原は都職員に一定程度の信頼を寄せていた。

さて、こうした知事の職員への信頼度が真っ先に影響する組織が、知事直下とも言える筆頭局(石原知事以降で言えば、政策報道室ー知事本部ー知事本局ー政策企画局)である。初期にあった政策報道室は、青島都政下でできたもので、それ以前の企画審議室に報道機能(広報部や都民の声部)を加えたものである。つまり、石原知事にとっては、知事になってみたらそこにあった組織にすぎない。こうしたこともあり、石原知事は青島都政で希薄であったトップマネジメントの強化を謳ったものの、政策報道室にトップマネジメントを補佐する能力はないし、期待もしていない。そして、「私には、信頼する特別秘書や多くの優れた専門家集団がいて支えてくれている。青島知事を手のひらの上で操った君ら役人の情報は信頼できない」とまで言っている(柿沼、206-208頁)。

政策報道室は2001年4月に解体され、知事本部となる。政策報道室に不足していたトップマネジメントの補佐能力を、この知事本部が有することとなった。石原はトップマネジメントを支える組織としてアメリカの大統領府のような組織を理想としていたが、この知事本部こそがその体現と言って良いだろう。

総務局にあった「身内」の秘書室が秘書部秘書課として当部の下に置かれたのに加え、知事の外交儀礼などの儀典的な(2003年に石原はそれまであった「外務長」を「儀典長」に改めている)事項を担当する外事課を秘書部の下に位置付けた。

その一方で、計画部や調査部は解体され、一部の機能が政策部に引き継がれるのみであったことに加え、政策報道室の報道機能(広報部、都民の声部)は中核となる報道機能を政策部報道課に残しながらも、生活文化局に引き継がれた。予算などの機能を有さないため、大統領府と比べる機能は限定的であるものの、真に知事の日程管理(秘書部)や、政策関係の補佐(政策部・企画調整部)に必要だと思われる部署を取捨選択して形成されたものである。

知事の関心事を扱う部署であるため、後の知事本局で米軍基地対策なども所管するようになり、舛添都政下で再び機能純化が行われることになる(政策企画局の設立)が、当初の知事本部の構想は、計画策定機能をそぎ落としたことを除けば、政策企画局にかなり近似しているように見える。

当該局は東都政での誕生(企画局)以降、常に知事のトップマネジメントの補佐のあり方を模索して変化を遂げてきたが、①(企画)・調整・計画・調査〔東・美濃部・鈴木〕→②秘書・調整・計画・調査・広報公聴〔青島〕→③秘書・調整・(計画)・外務〔石原・猪瀬・舛添・小池〕と、大まかに3つの形があるように見える。すなわち、市原都政でのトップマネジメント補佐を司る組織(大統領府型)が現在まで継承されている。これは、職員が政策立案に携わる(調査部・計画部の重要性が高い)①、②から、知事のリーダーシップを下支えする③の形に変わったとも読めるかもしれない。