都史考察

都史等について、気になったことの考察やメモ。文献調査に基づく個人的な意見ですので、特定の組織等の見解ではありません。

02 東京都調査部という組織

私の手元にある、東京都が作成した報告書の多くには、「調査部」の組織名が記されている。

調査部の組織基盤は、東龍太郎都政下の1964年8月1日、企画室から企画調整局の組織改編で計画部などとともに誕生した企画調査室に遡ることができる。これよりも古くは総務局の中に調査課がおかれていたこともあったが、組織的な連続性は考えにくい。東知事は行政における調査機能の重要性を認識しており*1、このため、調査を中心に行う部署が新設された*2。その後、美濃部亮吉都政下の1970年7月16日の組織改編で「調査部」となるが、この調査部は1976年7月の企画調整局廃止から1979年8月の企画報道室の新設までの3年間を除き、2001年4月の知事本部への組織改編まで、企画審議室(1985年1月~)や政策報道室(1996年7月~)といった企画系部門に受け継がれてきた*3

 

調査部では、都政に関するあらゆる事項について調査が行われ、多数の報告書が発表された。国会移転の影響予測や諸外国の大都市制度、シティホール建設など、様々な分野に及び、まさしく都庁内のインテリジェンス機関であったと言えるだろう。中央大学教授の佐々木信夫が都庁在職中に長く所属していたのも、この調査部であるなど、研究者気質の職員が多く所属していたことが推察される*4

後に舛添要一知事が知事本局を廃止し、「政策を作る頭脳集団」として政策企画局を新設した際には、都政新報紙(2014年5月27日)において、かつて計画策定の上で必要なシンクタンク機能を担っていたとして、鈴木都政時代の調査部が挙げられているように、都の長期の指針を定める上で必要な調査を行っていたと考えられる。

また、鈴木都政においては、ニューヨークとパリに都の海外事務所を設けたほか、オーストラリアのニューサウスウェールズ州などの海外都市への職員派遣も積極的に行われたが、これらの事務所では海外都市の制度・政策についての研究が行われていた。都職員に海外都市の行財政等についての著作が多い*5のは海外についても研究を行う体制・風土が整っていたためと考えられる。このほか、東京市政調査会への職員派遣などにも、職員の調査研究能力の涵養に積極的であったことが伺える。

 

こうした組織風土に変革が生じたのは石原都政下である。石原都政下の2000年には海外事務所が廃止され、さらに2001年の知事本部新設によって調査部は廃止された。

この背景には、石原都政の特徴とされるトップダウン方式や一橋総合研究所のような外部の政策集団の存在の影響もあっただろうが、財政再建による組織改革がその一因に挙げられるだろう。石原知事就任前年の1998年度の都の実質収支が1,086億円の赤字となり、財政再建が最優先課題であったことから、職員の削減(2000年度から2003年度だけで6,000人弱の定数削減)や事業の削減が積極的に進められた。そしてシンクタンク機能は旧都立大学首都大学東京)をはじめとする都行政機構の外部に置かれていったものと推察できる。

 

平成13年行財政改革基本問題特別委員会において、当時の行政改革推進室長が、政策立案、調整、計画策定、調査を一体となって弾力的に担える組織として政策部を新設すると発言していることから、調査部の機能は組織上は政策部(現在の政策企画局政策調整部)に継承されていると考えられる。一方で、同様の理由から機能が政策部に統合された計画部は2008年4月に計画調整部(現在の政策企画局計画部)として復活しているものの、調査部はその後復活はしていない。

(一部、敬称略)

*1:例えば、都議会昭和40年第1回定例会の東知事の発言では、企画調整局に加えて更に研究機関設置の必要性にも言及している。

*2:東京都公文書館のウェブサイトでは、その後、「企画調整室」と表記されているが、「企画調査室」の誤記だと思われる

*3:なお、この間にも企画審議室から政策報道室への組織改編のタイミングなどで、その機能においては若干の変化も見られる。

*4:前記事の太田久行の小説の引用文でもそのことが伺える。

*5:例えば、青山やすしや東郷尚武に、海外都市の行財政に関する著作がある

01 珠玉の名作『広場と青空の東京構想 試案1971』

青山佾『東京都知事列伝』の中で、「今日読んでも輝きを失っておらず、日本の各種計画のなかでも、また東京都政史上の各種計画のなかでも珠玉の名作」と評される、美濃部都政下の『広場と青空の東京構想 試案1971』。とある方にお借りして一読し、大変衝撃を受けた。

 

・都市軸と新宿副都心

まず、本構想には、「軸」の概念が多用されている。東京都内に限定せず、関東全域の構想として①産業軸、②生活軸、③流動軸の3つの軸を設定している。

都市計画における軸といって思い出されるのは、丹下健三の「都市軸」である。丹下は丸の内の旧都庁舎や西新宿の新都庁舎の設計など、都政との関わりも深いが、丹下研究室が作成した「東京計画1960」においては東京湾上に都市軸を設定した海上都市を描き出した。

中でも、特に私が感銘を受けたのは、当構想における新宿の都市計画である。「生活都心帯-拠点としての新宿」として描かれる西新宿の淀橋浄水場跡地では、都民のための新都心の中心軸としての「都民軸」と縦軸の「文化産業軸」が交差している。

都民軸と文化産業軸の交点には、「都民ホール」が設置されるものとしているが、現在、そこにあるのは都民広場である。

都議会議事堂と第一本庁舎の間に位置する都民広場は、バチカン市国サン・ピエトロ大聖堂の広場空間を模して造られた象徴的な交流空間である。都民広場はシティ・ホール建設審議会(昭和59年)において庁舎が有すべき機能として挙げられた「都民に開かれた交流の場としてのひろば機能」を担っているが、同地が新庁舎建設の約20年前のこの計画においても、都民の交流の中心地とされているのだ。

そして、本構想に描かれる「都民軸」は、後に丹下健三設計で建設される新東京都庁舎の第一本庁舎双塔の間に走る中心軸(都庁舎をめぐる説明でもほとんど出てこないが、コンペ案で丹下事務所は双塔の間に新宿副都心の中心軸を描いている)とぴったりと重なるのである。

 

・シビル・ミニマムの思想

また、本構想では、「シビル・ミニマム実現の都市改造」を目標としている。

もはや死語となったシビル・ミニマムの思想は、西尾勝「『シビル・ミニマムの思想』の原初の発想とその後の変貌」によれば、美濃部都政下の1968年に公表された『東京都中期計画』によって本格的に広まり、その後の行政計画において一世を風靡したとされる。

シビル・ミニマムの概念は、松下圭一が1965年に生み出したものだが、西尾勝によれば、その概念は『東京都中期計画』を受けて大きく進化を遂げている。

そのため、当時の東京都が新たな学説を率先して取り入れながら、その概念を更に洗練させていったと言えよう。

美濃部都知事が副知事に推したほどの腹心(小森武の反対により実現せず)、太田久行(童門冬二)は、退職後に記した『小説都庁』において、「企画局職員は頭脳集団としての自負を持つ…(中略)…学者みたいなのも沢山いる。いや、都庁内でそういう学者的しごとができる職場として、企画局を志望してくる職員も沢山いるのだ*1」と書いている。この企画局は、当時の企画調整局のことであり、そこに属する職員の気質が見て取れる。

最先端の学説を東京という現場に演繹させ、その発展につなげようとする高い意識を持った、本構想作成者たちの姿が思い浮かべられる。

 

・二極構造への転換

先述の生活軸は、東京を東西に横断するもので、その両端には東に都心、西に多摩地区が位置している(その途中に、新宿が位置する)。すなわち、この計画の特徴は都心一極集中から都心と多摩の二極構造への転換にあった。(余談だが、この点は現在のオーストラリアにおけるグレーター・シドニー・エリアの都市開発、すなわちシドニーCBDから西部への機能移転の都市計画に類似するものが見て取れる)

後に、鈴木都政において7つの副都心への機能分散が志向されたため、この構造は転換を強いられるが、都市軸の概念を基礎とした都市計画では至って自然な都市構造と言えるだろう。

丹下における軸の思想は古くは、戦前の「大東亜建設記念営造計画」や、戦後まもなくの広島平和公園の構造にも見て取れるが、1960年以降の都市計画において特に重視され、都市軸を都市の背骨として有機的に発展する都市の姿が描かれた。

この丹下の「都市軸」の思想は求心型放射状に広がる都市への一種のアンチテーゼと言えるだろう。中世以来、欧州の伝統的な都市においては求心型放射状に広がる都市構造が主流であった。今日においても、都市は基本的に放射状に拡大し、そのスプロール化を避けることが課題とされている(スプロール化への対応としては大ロンドン計画におけるグリーンベルトや、コペンハーゲンのフィンガープランなどがある)。

一方で、1966年から1968年にかけて日本を訪問したロラン・バルトは『表徴の帝国』の中で東京の構造を「空虚な中心」と呼んでいる。「空虚な中心」とは、著しい経済発展を続ける東京の中心に、「禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所*2」としての皇居があることを意味している。この点で求心型放射状の欧州型都市との差異が見て取れる。

もはやバルトの同書中でも「世界の二大都市」と言われるまでに発展していた東京が、急速な経済発展や人口増加を吸収できる都市構造を模索する中で、この『広場と青空の東京構想 試案1971』が提示したのが、都心と多摩地区の2極構造と、その2極を結ぶ生活軸の構造であった。

なお、東京の都市計画史において、鈴木都政下の「マイタウン東京構想」から現在まで続く多心型構造志向は、それ以前にも石川栄耀が1944年に記した『皇国都市の建設』にも「皇国都市的構造」として描かれている。石川が東京の都市計画に与えた絶大な影響を鑑みれば、東京都の設立当初から東京が多心型構造志向だったことが推測できることに加え、その後、都で初めての都市計画である『東京都長期計画』(1963年)においても多心型都市構造への方向性が明示されている。すなわち、本構想においてのみ、多心型都市構造と異なる構造が示されたとすら言えるかもしれない。

では、なぜ『広場と青空の東京構想 試案1971』において、この2極構造が提示されたのか。推測の域を出ないが、私はこの背景には丹下の都市軸の思想の強い影響があると思う。丹下の都市軸の思想は必ずしも一貫したものではなく、1967年の計画では、既存の都心から別の新たな場所に新都心を形成し、既存の都心から新たな都心の方向へと都市軸を誘導する形状が示された*3。本構想における都心と多摩地域の構造はまさにこのとおりのものであり、当時最先端の都市計画論を取り入れた結果と言えるのではなかろうか。

(敬称略)

 

参考文献:

青山佾(2020)『東京都知事列伝』

太田久行(1979)『小説都庁』

大塚英雄(2019)『副知事人事の裏事情』

多田麻梨子(2008)「丹下健三による軸の都市デザイン手法に関する研究」

東京都(1971)『広場と青空の東京構造』

東郷尚武(1993)『東京改造計画の軌跡』

西尾勝(2019)「『シビル・ミニマムの思想』の原初の発想とその後の変貌」

ロラン・バルト(1996)『表徴の帝国』宗左近

 

*1:太田(1979)、43頁

*2:ロラン・バルト(1996)、54頁

*3:多田(2008)、1-3