都史考察

都史等について、気になったことの考察やメモ。文献調査に基づく個人的な意見ですので、特定の組織等の見解ではありません。

09 二人の側近から読む石原都政とトップマネジメント

先月、井澤勇治(2020)『秘書が見た都知事の素顔 石原慎太郎と歴代知事』(芙蓉書房)が発売された。筆者の井澤は2007年6月から2010年3月まで石原知事の秘書部長を務め、その後も報道担当理事(報道官)、生活文化局長として都の要職を務めている。

側近から見た石原知事という面では、他にも青山やすしや猪瀬直樹など副知事のもののほか、著作があると思われるが、ここでは柿沼伸二(2015)『前期昭和人の日記』(文芸春秋)を取り上げ、両者の見方から石原都政(とりわけ、石原慎太郎という人物)について考えたい。柿沼は石原都政下の1999年から2000年に政策報道室長を務めている。

 

まず、両書を読むと、石原慎太郎という人物の描かれ方が対極と言っていいほど異なるのがわかる。

井澤(2020)では、人見知りで、虫の居所が悪いときは説明資料を紙つぶてとして投げる姿も描かれるが、一方で、秘書課の女性職員に笑顔を向け、ヨットに乗せる計画を立てるなどの一面が見られる。気難しいが、部下に優しい姿が描かれる。

柿沼(2015)では、石原は持ち前のリーダーシップこそあるものの、庁内では職員をねぎらうことなどなく、すぐに職員に辞表を促す冷酷な人物のように描かれる。

この違いは何だろうか。これは、①「身内」と「外部」の違い、②初期石原と後期石原の違い、の2点が主因であると言えるだろう。

まず、石原は身内にも厳しい人物であるが、身内のことをねぎらうのは忘れない人物だと思われる。例えば、石原の側近中の側近のH氏などは、格別の扱いを受けている。「内」と認められる人々、都庁内で言えば、知事に最も距離の近い秘書課が「内」であったと言える。これは、井澤が秘書から知事本局次長に転じた翌日に、知事の叱責を受け、「一昨日まで"仲間"として、言わば"内側"にいた人間に対するこの手厳しさ。これが、"石原慎太郎"である」(145頁)と書いていることが証左である。

また、石原が当初、都職員を信用せず、一橋総研などの「身内」を中心とした政策立案を行っていたことも知られている。しかし、井澤(2020)でも「石原知事も、就任当初こそ二言目には、『大体、民間企業と比べて都庁は』と発言していたが、任期を重ねるごとにその言葉は出なくなった」(229頁)と書かれるように、後期の石原は都職員に一定程度の信頼を寄せていた。

さて、こうした知事の職員への信頼度が真っ先に影響する組織が、知事直下とも言える筆頭局(石原知事以降で言えば、政策報道室ー知事本部ー知事本局ー政策企画局)である。初期にあった政策報道室は、青島都政下でできたもので、それ以前の企画審議室に報道機能(広報部や都民の声部)を加えたものである。つまり、石原知事にとっては、知事になってみたらそこにあった組織にすぎない。こうしたこともあり、石原知事は青島都政で希薄であったトップマネジメントの強化を謳ったものの、政策報道室にトップマネジメントを補佐する能力はないし、期待もしていない。そして、「私には、信頼する特別秘書や多くの優れた専門家集団がいて支えてくれている。青島知事を手のひらの上で操った君ら役人の情報は信頼できない」とまで言っている(柿沼、206-208頁)。

政策報道室は2001年4月に解体され、知事本部となる。政策報道室に不足していたトップマネジメントの補佐能力を、この知事本部が有することとなった。石原はトップマネジメントを支える組織としてアメリカの大統領府のような組織を理想としていたが、この知事本部こそがその体現と言って良いだろう。

総務局にあった「身内」の秘書室が秘書部秘書課として当部の下に置かれたのに加え、知事の外交儀礼などの儀典的な(2003年に石原はそれまであった「外務長」を「儀典長」に改めている)事項を担当する外事課を秘書部の下に位置付けた。

その一方で、計画部や調査部は解体され、一部の機能が政策部に引き継がれるのみであったことに加え、政策報道室の報道機能(広報部、都民の声部)は中核となる報道機能を政策部報道課に残しながらも、生活文化局に引き継がれた。予算などの機能を有さないため、大統領府と比べる機能は限定的であるものの、真に知事の日程管理(秘書部)や、政策関係の補佐(政策部・企画調整部)に必要だと思われる部署を取捨選択して形成されたものである。

知事の関心事を扱う部署であるため、後の知事本局で米軍基地対策なども所管するようになり、舛添都政下で再び機能純化が行われることになる(政策企画局の設立)が、当初の知事本部の構想は、計画策定機能をそぎ落としたことを除けば、政策企画局にかなり近似しているように見える。

当該局は東都政での誕生(企画局)以降、常に知事のトップマネジメントの補佐のあり方を模索して変化を遂げてきたが、①(企画)・調整・計画・調査〔東・美濃部・鈴木〕→②秘書・調整・計画・調査・広報公聴〔青島〕→③秘書・調整・(計画)・外務〔石原・猪瀬・舛添・小池〕と、大まかに3つの形があるように見える。すなわち、市原都政でのトップマネジメント補佐を司る組織(大統領府型)が現在まで継承されている。これは、職員が政策立案に携わる(調査部・計画部の重要性が高い)①、②から、知事のリーダーシップを下支えする③の形に変わったとも読めるかもしれない。

08 太田久行『小説都庁』を読んで

07に引き続き、太田久行の美濃部都政に関する著作を扱う。

太田久行『小説都庁』は、太田の自伝的小説である。美濃部都政末期を描くが、その様相を歴史小説家・童門冬二らしく、幕末風の例えで書いている。美濃部知事は、一橋知事(もちろん、一橋慶喜に由来)、都側にいながら敵陣営に寝返る参与を(勝海舟から)勝として、そしてその戦いは部分的に鳥羽・伏見の戦いにも例えられている。そのほか、松平や川路など幕末好きが読むと思い当たる名前が多い(私はたまたま、幕末好きだったので、大変面白く読めた)。

07で書かなかった財政再建が、本小説では深刻な問題となっている。財政局(財務局)と地方省(自治省)の戦いが描かれるが、一橋知事を再選させないために、わざと財政破綻を狙う背信者が都庁の中にも出てくる。

その一方で、企画局(政策室)の計画ラインの職員は、レイムダック化しつつある一橋都政末期において、「同人雑誌」などと揶揄されながらも、「これからの都政」を完成させる(おそらく美濃部都政末期に出された「低成長社会と都政」のこと)。

主人公の下坂局長は「革新都政」に殉じて辞職する。辞職を心に決めながら、最後にその都庁人生を振り返る。下坂は戦時下で少年飛行兵であった。区役所に入り、都庁の大幹部にまで上り詰めた、その原点を戦後、復員して東京駅に降り立ったその日に遡る。

さて、本書は一橋知事の見送りから始まるのだが、下坂の次に出てくる職員(下坂は退職しているので、最初の職員と言っても良いだろう)は、下坂の秘書をしていた、企画局の平岡主査である。この平岡主査は、果たして誰がモデルなのか、これまた都政史を語る上で外すことができない重要人物だが、ここでは、ご想像にお任せしたい。

(名前の由来は平岡円四郎だろうか。それほど、太田さんはこの人物を評価していたのだろう。二人の関係はよく知られるところである。)

07 『美濃部都政12年 政策室長のメモ』から読む美濃部都政

美濃部都政を語る上で外せないのが、童門冬二ペンネームで知られる、太田久行だろう。目黒区役所をスタートに、政策室長にまで上り詰め、美濃部からも副知事候補として名前が挙げられた。後に、美濃部知事の退陣に伴い、自身も都庁を退職する。なお、戦時中の太田の経歴でよく書かれるのが、「海軍少年飛行兵の特攻隊」というものだが、少年飛行兵は陸軍のもので、「七つ釦は桜に錨*1」で知られる海軍の予科練に属していたと思われる。

その太田が、都庁を退職後に書いたのが『美濃部都政12年 政策室長のメモ』であった。美濃部の側近中の側近として、直に美濃部都政を見てきた著者が美濃部都政全体を語るものである。以下、部分的に印象的だったところや気になったところを、読書感想的に書き記したい。

 

・東京に憲法を実現

太田が、記者から美濃部都政12年の評価を問われた際には、「東京に憲法を実現したことだ。何よりも都民と都政の距離を縮め、溶け合わせたことだ*2」と答えたという。美濃部は都の意思決定において、都民の意見を重視し、「都民と都政を結ぶつどい」という名の対話集会を開催した。

また、美濃部都政の中期計画においてシビル・ミニマムの思想を実験的に導入するとともにその理念を発展させたことは、本考察の01で述べたところである。

特に「憲法」という言葉が用いられていることに、彼があの美濃部達吉の長男であったことが無関係ではないだろう。「天皇機関説」で知られる憲法学者美濃部達吉は、今日でも学校で日本史を履修すれば学ぶほど、幅広く知られるものである。そして、その生まれ故に、職員からは「貴族」とも呼ばれていたと本書では記されていた。

しかし、「貴族」と呼ばれるほどの名門の出でありながら、都民との対話を重視し、「都の掃除人」になるとして、最後は東京のために「泥をもかぶる」覚悟で三期を務めた。

 

・美濃部福祉

美濃部都政といえば、その福祉行政で知られるところである。「ばらまき」とも批判される、そして本人も「東京の、そして日本の福祉は、もっとバラまいていかなければならない*3」と述べたほどの、福祉行政は後に石原都政において大きな方針転換を求められるが、当時の福祉行政の新たな一歩であったことは疑いようがない。

 

・ごみ戦争

京王井の頭線高井戸駅を降りて数分歩いたところに、杉並清掃工場がある。2017年に新工場が建て替えが終わった、この工場は、都が誇るごみ処理技術の格好の視察先となっているが、ここには「東京ごみ戦争歴史みらい館」が併設されている(ついでに言えば、ごみ処理の熱エネルギーを活用した足湯も併設されている)。

この歴史館では、今では想像もできぬ、ごみ戦争の姿が語り継がれているが、この「ごみ戦争」の名は、美濃部が1971年に「ごみ戦争宣言」を行ったことに由来するものである。なお、今日では、ごみ処理は東京二十三区清掃一部事務組合(2000年設立)などが担っているが、かつては都庁の清掃局がこれを担当していた。

ごみ戦争の詳細は省略するが、この杉並清掃工場の建設に導いたのが美濃部であった。太田は、このごみ戦争が都庁と都民のごみに対する認識を変え、都市問題とするとともに、憲法実現という高い次元にまで発展させたと述べている*4

 

・橋の哲学

美濃部都政の特徴の一つとして語られるのが、この「橋の哲学」であった。フランスの医者、フランツ・ファノンの「たとえ橋ひとつつくられるにしても、その橋の建設が、そこに住むすべての人々の意識を豊かにしないならば、橋は建設されない方がよい」という言葉に由来する。実際に、知事の祝詞では「すべての人々の合意」と書かれたものが、首都整備局長によって「多くの人々」に改められ、知事はこのように演説した。しかし、すでに「すべての人々」で印刷されたものが議員や記者に回っていたというのは面白い話である。

 

北京市との友好都市関係締結

本書では、北京市との友好都市関係の締結についても簡単に述べられている。美濃部知事の引退の一か月前のことである。今日、北京市は友好都市関係を拡大させる友好都市外交とも言える国際戦略を展開しているが、北京にとって第一の友好都市は東京都であった。そのため、今日でも相互訪問が行われるなどの関係が継続している。

ちなみに、東京都には12の姉妹友好都市があるが、このうち姉妹都市ニューヨーク市だけで、あとは友好都市である。英語では"Sister City"という言葉が用いられるが、「姉妹」とは上下関係のあるものである。その言葉が含む上下関係を嫌う中国との関係では、他の自治体においても、「姉妹都市」ではなく「友好都市」という名称を選ぶことが多い。

なお、極めて私見であるが、私は中国との友好都市関係の締結は、国家外交上の意義も高いと考えている。なぜなら、中国の国家行政において、大都市の市長や、省長は、中央官僚の出世ルートに含まれているからである。習近平福建省長であった頃に友好都市の長崎を訪問しているし、現在の中国共産党最高幹部の一人である蔡奇書記は元北京市長である。

 

・都電青山車庫

本書では、美濃部知事が都電青山車庫の跡地をしきりに気にしていたという話も出てくる*5。都電青山車庫は、青山学院大学の前の、現在の国連大学が建っている土地である。

このときは、池袋に芸文会館、新宿に清掃工場付きのシティ・ホール、青山に婦人会館が建設される見通しだった。これらは、今日の東京芸術劇場(1990年完成)、東京都庁舎(1991年完成、清掃工場はなし)、東京ウィメンズプラザに相当するものだが、このころからの計画は少し形を変えながらも、ほぼ達成されている。

 

以上、本書を読んでの雑感である。美濃部都政3期目の重要課題であった財政再建については、あえて記さなかった。

*1:本筋とは全く関係がないが、これが俗にいう「制服の第二ボタン」の由来である

*2:22頁

*3:111頁

*4:142-143頁

*5:231頁

06 もう一つの新東京都庁舎

前回、鈴木知事時代の新東京都庁舎建設について記事を書いたが、ここでもう一つの庁舎案について語りたい。具体的には、磯崎新の案についてである。本稿では詳細は説明しないため、平松剛『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』や実際の応募案も参考にされたい。

 

私事ではあるが、哲学系の学生であった私は、高校時代の友人の「建築は哲学を体現したもの」という話から、東大建築学科に通っていた別の高校時代の友人の手伝いを行ったり、自分でも就職後に大学の建築学科に通ったりした。哲学、特にフランス現代思想と建築との関わりを考えるとき、磯崎新について語らざるを得ないだろう。私の手元にある磯崎の著作を取ってみてもデリダラカンが出てくるなど、現代思想への関心と造詣の深さを読み取れる。

 

その磯崎は、新都庁舎建設に当たるコンペに参加していた。高層ビル案が並ぶ中、磯崎が提示したのは地上23階建て、軒高89mの「低層案」だった。その様相は、今日のフジテレビの社屋を想像していただければわかりやすい。

 

磯崎が新都庁舎案に込めた思想は「リゾーム(錯綜体)」と「プラトン立体」。リゾームとは、ドゥルーズ=ガタリポストモダン社会の構造と提示したもので、ツリーに対比されるものである。

東京都を含む、役所の組織図というものを思い出してもらいたい。それは、知事なりの「長」を頂点に、各局ー各部ー各課などに枝分かれをしていく、まさにツリーの構造と言えよう。磯崎は、こうしたタテ割り構造への批判を込めて、リゾームの概念を導入した。そして、これをジャングルジム型の立体格子という形で表現した。

また、プラトン立体は、幾何学立体を火、空気、水、土などに対応させたものである。磯崎の新都庁舎デザインには、球体やピラミッドが盛り込まれている。フジテレビ本社にシンボル的に球体が入っているように。

新都庁舎建設に当たって多用されたのが「シティ・ホール」という言葉だったが、これは旧来の単なる行政機関のオフィスビルを脱却し、住民との距離を近づける広場的機能(及び文化機能など)を模索したためである。

これに対する丹下の答えが、現在の都民広場(第一本庁舎と議会棟の間の広場)であったのに対し、磯崎案は、4つに分けた巨大な低層ビルの間に屋根付きの広場を設けるというものだった*1。そして、丹下が都民広場の周りの回廊でサンピエトロ大聖堂の広場を表現したのに対し、磯崎はその4つの建築物を以て、サンピエトロ大聖堂のような巨大で象徴性の高いものを表現した。

そして、磯崎が新都庁舎案に込めた概念は最終的に「強度」「交通」「錯綜体」「崇高」「ハイパーテック」の5つの言葉で示されるようになる。プラトン立体は、このうち「強度」の表現に用いられている。

読み物としても大変に面白い。ベネチアサン・マルコ広場風の柱に風神・雷神が乗せられているかと思えば、村上龍の小説が引用されたり、村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で登場させた東京の地下に住み着く「やみくろ」が場したりする。丹下が西新宿の中心軸として第一本庁舎を設計したのに対し、磯崎は様々な軸を発生させる「多軸性」を表現した。この作品は、およそ他のコンペ参加者の大手企業などではとても提出できるものではない。

この磯崎案は、(共著も出すような友達であったが)ニューアカの代表的な論者である浅田彰や、風水的な知見から荒俣宏などの支持も得たようで、実際に審査の過程でも注目を集めたようだが、建築法上の問題などもあり、採用されなかった。

しかしながら、行政庁舎のあり方を考えるとき、高層ビルの新東京都庁舎型に対峙する概念として、今日でも十分に参照され得るものだろう。

 

参考文献

平松剛『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』

プロセス・アーキテクチュア『東京都新都庁舎・指名設計競技 応募案作品集』

ほか

*1:なお、あえて述べるまでもないが、磯崎は丹下研究室の出身で、丹下とは師弟関係である。

05 鈴木俊一と新東京都庁舎

本日は、鈴木俊一都知事の命日からちょうど10年に当たる日である。

鈴木知事は、今日でも歴代の知事の中で、実務型の知事として高い評価を得ている*1。実務型の知事を語るときに必ずと言ってよいほど引用される人物であり、今日でも都政史を語る上での最重要人物の一人である。知事としての任期が満4期と、全都知事の中で最長なだけでなく、鈴木は都政と最も縁の深い知事だろう。鈴木は子供時代に、東京府知事宛ての書類群を見て東京の知事に関心を持ったと語り、都知事を夢見たこともあったというが、鈴木の人生において東京都は運命のように幾度と関わりを見せてくる。

 

鈴木は、東京都の誕生にもかかわっている。1943年、東京府東京市が廃止され、東京都が誕生したとき、鈴木は内務官僚として、内務省地方局行政課の筆頭事務官として都の制度づくりに携わった。戦後、GHQによって地方制度の改革が進められると、鈴木は地方自治法の制定を担当した。東龍太郎都政では、東京都副知事に就任し実質的に実務を仕切り、「東副知事・鈴木知事」などとも揶揄された。当時、内閣官房副長官を務めていた鈴木にとって、東京都副知事は格の下がるポストであったが、1964年東京オリンピックを前に、行政経験のない東知事の補助役として依頼を受けたものであった。1979年に念願の都知事に就任すると、満4期を務めた。

この鈴木都政のキーワードとして、青山やすし氏は、「臨海・庁舎移転」を挙げている*2。「臨海」とは、お台場などのエリアを指し、鈴木知事は多心型都市の心の一つとして臨海部の開発を行うとともに、世界都市博覧会の開催をこのエリアで行おうとしていたこと、そしてそれが青島知事の就任により中止となったことは広く知られている。今回は、もう一つのキーワードとなっている「庁舎移転」に注目したい。

 

高度経済成長により、行財政需要が増大し、都の職員数が増加すると、丸の内の庁舎では事務室面積の不足が深刻化した。また、丸の内庁舎は、(新庁舎と同じく)丹下健三設計の庁舎が目立ったものの、分庁舎や賃貸ビルにも庁舎が分散し、事務の非効率化を招いていた。

こうした中、鈴木知事は就任当初から、新宿副都心への庁舎移転を目標に定めた。新宿が選ばれたのは、多心型都市構造の心の一つとして新宿が選ばれており、淀橋浄水場の跡地に未利用の都有地があったためである。また、移転の理由の一つとしては、人口重心が西に移っていることも挙げられた。この点、多摩出身の鈴木知事には多摩からのアクセスの良さが重要度の高いものとして考えられたということもあったかもしれない。

「シティ・ホール」として都民交流などの従来以上の機能を付加された新庁舎は、その後6年かけて調査や調整の上、1985年に「東京都庁の位置を決める条例」が可決された。そして、翌1986年には指名設計競技で丹下事務所が選定され、再び丹下健三が庁舎設計に携わることとなった。

コルビュジェ風のピロティ空間が特徴的な低層の旧都庁舎と比較して、新都庁舎は高層かつ、庁舎・議会棟を接続する廊下で周囲をバチカンのサンピエトロ大聖堂のように区切られた特殊な空間である。都民の交流空間として都民広場が設計され、気軽に訪れられるものとして、文化機能なども付与されているが、第一本庁舎の厳かとも言える様相は、むしろその逆の評価を受けることすらもある。なお、鈴木と丹下は大阪万博の準備等でも交流があり、鈴木の知事選挙の応援団長を丹下が務めるなど、つながりが深かった。丹下健三が抜きんでで有名な建築家であった上に、この関係もあり、当初から丹下事務所の案が採用されるとの見通しが強かった。実際に、出そろったコンペ案を見ても、磯崎新案などの面白い案も見られる*3ものの、デザイン性として丹下事務所案が卓越していると言えるだろう(もっとも、電子回路に見立てられた表面デザインは、出来上がってみると薄っぺらかったなどの評価もあり、新都庁舎の評価は必ずしも良くはない)。

こうして誕生した都庁舎には、多額の費用がかかったことなどからの批判もあるものの、東京のランドマークの一つ、観光地の一つとしても広く親しまれている。余談だが、私はシンガポールに行ったときに、この都庁舎によく似た建物を見つけた。UOBプラザと言う名のこのビルは高さや低層階の構造などに大きな違いはあるものの、本質的なデザインが酷似している。きっと、新都庁舎デザインは建設後も丹下の自身のお気に入り作品の一つだったのだろう。

 

鈴木の功績は他にも幾多とあるが、これらと別に挙げるならば、その一つは国際交流(都市外交)であったと思う。鈴木時代に多くの都市との友好都市関係の締結や、海外事務所の設立、相互訪問などの交流が加速した。この点は、高木祥勝『東京都の国際交流―鈴木都市外交の軌跡―』に詳しい。

 

参考文献:

東京都『新都庁舎建設誌』

鈴木俊一私の履歴書

鈴木俊一『官を生きる 鈴木俊一回顧録

東郷尚武『東京改造計画の軌跡ー多心型都市の形成と都庁舎移転』

*1:

都政新報小池都政 虚像と実像~第1部 都職員アンケート(6)/知事選/都政の安定、職員は切望」

*2:青山やすし『東京都知事列伝』、105頁

*3:平松剛『磯崎新の「都庁」』参照

04 都庁における庁議の変遷

都庁における庁議の変遷は、進藤兵(1995)「都庁におけるトップ・マネジメント―庁議方式と企画調整部局の制度史分析」御厨貴『シリーズ東京を考える3 都庁のしくみ』都市出版に詳しい。しかし、1996年以降の庁議及び類似の会議体については、情報がまとまっていないため、以下に都政新報紙や諸規則の情報を加え、簡潔にまとめる。(資料が十分でない箇所もあるため、誤りがあればご指摘いただきたい)

 

安井都政:庁議を発足。「庁議要綱」(1949)、「庁議規則」(1957)

東都政:第二次「庁議規則」の制定(1960)

    鈴木副知事による庁議の拡充強化→庁議・首脳部会議

    第三次「庁議規則」の制定(1964)→庁議・首脳部会議・調整会議

美濃部都政:「政策会議規則」(1976)→政策会議・幹事会議・庁議・特定議題を扱う政策会議

鈴木都政:「首脳部会議規則」(1979)→首脳部会議・幹事会議・特定の議題を扱う首脳部会議

     第四次「庁議規則」(1985)→首脳部会議・調整会議・庁議

石原都政:「政策会議規則」(1999)→政策会議・庁議

舛添都政:政策会議・庁議・首脳部会議

     (補佐官の設置(2014、補佐官会議)→首脳部会議に)

小池都政:「都庁マネジメント本部規則」(2016)→都庁マネジメント本部・庁議

03 プロトコール上の東京都知事

大統領制のような日本の自治制度の中で、スウェーデン一国の財政規模に匹敵する13兆円の予算を抱える東京都知事は、「首相より強い権力者」と言われることもある*1。実際に、その影響力においても首相には劣るものの、国内の政治家有数のものである。

しかし、国のプロトコール上では、戦後、明確な序列は定められていないものの、概ね以下のような基準で席次が決められる*2

 

1 天皇陛下、皇族

2 三権の長内閣総理大臣衆議院議長参議院議長、最高裁判所長官の順)

3 元三権の長

4 外国特命全権大使(信任状捧呈順)

5 閣僚(管制順又は年齢順)

6 国会議員

7 財界等有力者

8 その他認証官

9 都道府県知事(行政順又は連合組織の定める順)

10 都道府県議会議長

11 各省事務次官

 

つまり、日本国在住の全員が集まる行事が企画されたと仮定した場合、都知事は上から900番台又は1000番台の序列になるのだ。もちろん、これは外務省関係者が示す一つの基準であって、実際には様々な条件を考慮して序列を決めるため、必ずしもこのとおりに決まるものではない。

ただ、都知事はその影響力や権力においては国内トップレベルであるものの、行政制度上は一都道府県の首長に過ぎない。

 

しかし、戦前においてはその様相は少し異なった。

1943年7月に、世界大戦下の帝都行政の効率化を目的として東京府東京市が廃止され、東京都が新設されると、その長たる東京都長官親任官として設置された。大日本帝国憲法下の官吏に設けられた階級のうち、親任官は最上位のものであり、天皇陛下親任式で親署される役職であった。なお、その次の位の勅任官から、敬称は「閣下」であったとされる。なお、現在の外交においては地方政府の長に慣例的に敬意を込めて「閣下」(His/Her Excellency)を用いることもない訳ではないが、通常はThe Honourableを用いる(東京レベルの大都市であれば、Lord Mayorに用いるThe Right Honourable辺りが適切なようにも思われる)*3

戦前においては、各官職の序列は「宮中席次」という形で設けられており、これは以下のとおりであった。

(当然、1より上に皇族がある)

1 大勲位

2 内閣総理大臣

3 枢密院議長

4 元勲優遇者

5 元帥、国務大臣宮内大臣内大臣

6 朝鮮総督

7 内閣総理大臣、枢密院議長経験者

8 国務大臣等経験者

9 枢密院副議長

10 陸軍大将、海軍大将、枢密院顧問官

11 親任官

12 貴族院議長、衆議院議長

(中略)

19 高等官一等

(中略)

24 高等官二等

 

親任官たる東京都長官貴族院衆議院議長よりも上席であり、また高等官一等又は二等の府県知事よりも明確に格上となっている(地方行政における親任官として、大戦末期(1945年6月)に各地方に置かれた地方総監府の総監もあった)。

もっとも、戦後にGHQ占領政策を行うまでは、官選知事の時代であったため、この府県知事というのはその大半が内務官僚などの国が選んだ人物である。終戦直後ではあるが、当時の県知事の性格を理解する上での事例の一つとして、春彦一の事例を挙げたい。

春は、東京帝大法学部卒業後に東京都の前身である東京市に就職した東京市職員である。出世コースを歩み、東京都が誕生すると港湾局長や交通局長を務めた。しかし、交通局長の後のポストが、岩手県知事であった。その後、春は都に戻り、労働局長や副知事を務めた。GHQ公職追放によって行政官の多くが公職を追われた*4ための特例的な人事ではあっただろうが、制度上は東京都の局長級が県知事に就任することもできた。なお、東京都の制度を作った内務官僚の一人(後の知事)鈴木俊一は、府県の課長が都の係長、部長が課長、府県の知事が都の局長だったと明言している*5

戦後、都道府県知事が公選となり、地方分権改革が進んで機関委任事務制度が廃止される、国と都道府県の関係は上下関係から対等なものに変わるなど、都道府県の自律性は極めて高まった。一方で、その公式の序列においては、都知事の序列は一地方の首長として先述のものに低下している。

*1:佐々木信夫『都知事-権力と都政』など

*2:杉田明子『国際マナーのルールブック』、安倍勲『プロトコール入門』などを参考とした。

*3:個人的な所感ではあるが、勅任官は現在における指定職レベルの官職であり、現在よりも幅広く「閣下」の敬称が用いられていたと考えられる。この点、愛新覚羅溥儀が「閣下」と呼ばれて激怒したというのにも頷ける気がする。

*4:例えば、都職員においても、その出世ルートに含まれていた区長のポストにいた者は、大政翼賛会支部長を兼職していたため、公職追放の対象となった。

*5:鈴木俊一『官を生きる 鈴木俊一回顧録』51頁